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 日本ハム田中幸雄内野手(39)が17日、楽天12回戦(東京ドーム)の四回、山村宏樹投手(31)から右前打を放ち、史上35人目の通算2000安打を達成した。

 22年目での通算2000安打は史上最も遅い記録で、39歳5カ月は歴代6位の高齢達成となった。日本ハム一筋でプレーした選手としては史上初の快挙で、前身の東映時代の1972年の張本勲選手、中日から移籍後の90年に達成した大島康徳選手を含めると、球団史上3人目の大台到達となる。

 田中幸は七回と八回にも安打を放ち、通算2002安打とした。

 田中幸は86年に都城高(宮崎)からドラフト3位で日本ハムに入団。強打の大型内野手として1年目から一軍の試合に出場し、95年には最多打点のタイトルを獲得した。

★記録達成に目潤ます…ガマンと辛抱の22年

 四回一死一塁、日本ハム・田中幸は高めの直球に合わせて流し打った。低く、鋭い打球が右翼手の手前で弾んだ。22年目で到達した2000安打。「打った瞬間から、込み上げてくるものを抑えるのに必死だった」と感慨を口にした。

 試合には敗れたが、かつての本拠地・東京ドームのファンから惜しみない拍手がおくられた。その声に応えるように、その後の2打席でも中前打、左前打を放ち、2005年6月28日以来の3安打で記録達成に花を添えた。

 試合後も『ユキオ・コール!』は鳴りやまず、再びグラウンドに姿を見せて一礼。「本拠地として一番長くプレーした東京ドームで節目を打てた」と目を潤ませた。

 2003年にヒルマン監督が就任し、定位置を失った。04年は残り99本として臨んだが、代打中心の起用で足踏みが続いた。球団からは、他球団に移籍しての記録達成も促されたが、当時の球団幹部は「本人が日本ハムで達成したいと言ってくれた。お互いガマンの日々だった」と振り返った。

 ついに栄誉をつかみ取った。「きれいなヒットで飾ることができて本当に幸せ」。まさに充実感に満ちた表情だった。

★入団時監督が田中幸の大記録を祝福

 田中幸が入団した当時の監督だった日本ハム・高田ゼネラルマネジャーGM)も「よく打った」と目を細めた。高卒2年目で早々と定位置を与えたことについて「体格、素質、パワーに恵まれた選手だから使った。誰が監督でも魅力のある選手だったよ」と当時を懐かしんだ。田中幸は「よくガマンして使ってくれた。高田サンがいなければ、いまの自分はいない」と感謝を忘れなかった。

日本ハム・田中幸
「きれいなヒットで飾ることができて本当に幸せ。打った瞬間から、込み上げてくるものを抑えるのに必死だった」

日本ハムヒルマン監督
「本当に素晴らしい記録。みんなが待ち望んでいた。最も思い出深い東京ドームで出たことは喜ばしい」

日本ハム大沢啓二元監督の話
「仲人もしているし、おめでとうの言葉以外見つからない。一つの球団でなかなかできることではない。これを財産にして今まで世話になった球団に、指導者としても恩返ししてほしい」

日本ハム高田繁ゼネラルマネジャーの話
「入団時は監督で、区切りの時にも球団にかかわれていることはうれしい。ここ数年は控えに回り、故障もあって大変だったと思うが、その分、喜びも大きいはず。大したもの」

日本ハム上田利治元監督の話
「故障と戦いながら黙々と積み重ねてきた道程は、まさにまじめで純真な幸雄らしい。ここ数年、苦しんだだけになお値打ちがある。まだまだ体は若いし、優勝を目指してこれからも頑張ってほしい」

楽天・野村監督
「たかが2000、されど2000や。長い間健康で、自己管理ができないと打てない。重い記録だよ」

ソフトバンク王監督
「長年(本拠地として)やった東京ドームで達成したのは、よかったんじゃないか。家族も喜んでいると思う」

■田中 幸雄(たなか・ゆきお)
1967(昭和42)年12月14日、宮崎県生まれの39歳。都城高2年時に『2番・遊撃』で春夏甲子園に連続出場。春は準決勝、夏は3回戦で、同じく2年の桑田(現パイレーツ)、清原(現オリックス)擁するPL学園に敗れた。86年にドラフト3位で日本ハム入団。99年には球団史上初となる200本塁打を達成し、2000年のシドニー五輪では日本代表に選ばれた。1メートル84、91キロ。右投げ右打ち。既婚。年俸2000万円。背番号6。


高めの直球に合わせて流し打った低く、鋭い打球が右翼手の手前で弾む。22年目でたどり着いた2000安打目。打球の行方を食い入るように見詰めながら走った田中幸は、一塁塁上で感慨深げな表情を浮かべた。

 快挙達成後に試合は一時中断。選手会長金子誠、OBの西崎幸広岩本勉両氏らから花束を贈られた。かつての本拠地だった東京ドームのファンから惜しみない拍手が送られると、田中幸は目を潤ませて喜びに浸った。

 2003年にヒルマン監督が就任したのを機に、レギュラーの座が危うくなった。04年は残り99本として臨んだが、代打起用が続き35試合の出場で、わずか20安打。「何で出してくれないんだ」。スタッフらにいら立ちをぶつけることもあったという。

 球団からは、他球団に移籍しての記録達成も打診された。しかし、当時の球団幹部は「本人が日本ハムで達成したいと言ってくれた。お互い我慢の日々だった」と振り返った。

 球団は、生え抜き選手の快記録に対し、お祝い金1000万円を贈ることを決定し、田中幸の背番号「6」を永久欠番にする方向で調整に入った。大社啓二オーナーは「球団の勲章です」と、39歳5カ月で最高の輝きを放った田中幸をたたえた。


パ・リーグ日本ハム6-11楽天、12回戦、日本ハム7勝5敗、17日、東京ドーム)日本ハム田中幸雄内野手(39)は17日、楽天12回戦(東京ドーム)の四回に右前打を放ち、史上35人目の通算2000安打を達成した。初安打は86年6月10日の南海戦で井上から。39歳5カ月での到達は6番目の高齢到達で、通算2205試合目での達成も大島康徳日本ハム、2290試合)に次いで遅かった。

 予告通りの「きれいなヒット」で決めた。四回一死一塁、田中幸の打球はライナーで右前へ。実働22年。史上もっとも長く苦しんだ2000安打達成。スタンドもベンチも総立ちとなった極上のひとときを、“ミスターファイターズ”は慣れ親しんだかつての本拠地・東京ドームの一塁塁上でかみしめた。

 「やっと打つことができました。こみ上げてくるものを抑えるのに必死でした」

 試合終了後は1万9000人からの「ユキオコール」。スタンドに向かって深々と頭を下げた。

 「(記録を)意識しだした」という1900安打を超えてから、3年以上の歳月が流れた。肩、ひじ、ひざなど故障続きの体は言うことを聞かなくなっていた。特に97年に手術した右ひじの痛みは深刻。術後もバットが思うように振れず「あきらめていた部分があった」という。痛み止めの注射や、電気治療など効くと助言されたものはすべて試したが、期待した効果は得られなかった。

 何度も折れそうになった心を支えてくれたのが最愛の妻の存在。「外ではあまり言わない」というため込んだ愚痴のはけ口は、いつも千恵子さんだった。勢いに任せて言葉をぶつけることもあったが「好きにすればいいんじゃない? いいんだよ辞めて」。いつも優しい笑みで返してくれた。

 結婚2年目。子供がいないふたりはオスとメスのヨークシャーテリアを2匹飼いはじめた。遠征の多いだんなを持つ身でもあり千恵子さんは愛情を持って接したが、一昨年に2匹そろって他界した。常に笑顔で不満を受け止めてくれていた妻が、初めて見せた憔悴(しょうすい)の色。励ます立場にまわったとき、苦しんでいたのは自分だけではなかったことを知った。この日を境に、田中幸はどんなに苦境に立たされても不満を漏らすことがなくなった。二人で支え合いながら積み上げてきた軌跡。涙を流す千恵子さんの姿に、これまでの苦労が並大抵ではなかったことが凝縮されていた。

 3、4打席目も安打を放ち、05年6月以来の猛打賞も記録。「同級生が現役にいますから、最後にユニホームを脱ぎたい」。田中幸の挑戦にはまだ続きがある

田中幸雄に聞く
 −−達成の瞬間、一塁ベース上での気持ちは
 「その後の2回くらいはこみ上げるものがあって、抑えるのに必死でした」
 −−苦しかった時期は
 「(残り)100本を切ったあたりから若手も出てきて、立場が変わってきた。そういう中で気持ちを整理するのに時間はかかった」
 −−プロの世界ですごいと感じたことは
 「高校からプロに入って、二軍の試合で初めてスライダーを見た。今まで変化球といえばカーブしか知らなかったし、こんな球は打てないと思った」

■田中幸2000安打までの道のり
日本ハム入団 宮崎・都城高から86年ドラフト3位で日本ハム入団。同期入団は清原、桑田のKKコンビ。
★初安打 1年目の86年6月10日南海戦(後楽園)。都城高の先輩、井上(現ロッテコーチ)から左翼席へ本塁打
★故障に泣く 92年は「上腕骨頭後部軟骨はく離」で手術を受ける。わずか1試合の出場。
打点王 142安打を放った95年に、80打点を挙げてイチロー初芝と並び打点王を獲得。
★1000安打 96年5月14日の西武戦(東京ドーム)。小野から左前打を放ち、史上182人目の1000安打達成。
★全打順本塁打 97年8月12日のロッテ戦(仙台)。5番遊撃で出場し、右翼席へ本塁打。1番から9番までの全打順での本塁打を記録。
★代打サヨナラ安打 06年5月9日の楽天戦(札幌ドーム)。延長十回一死満塁で、中前にプロ初の代打サヨナラ安打を放つ。
★代打満塁弾 07年4月28日の楽天戦(フルスタ宮城)。七回二死満塁で代打出場し、左翼席へ自身初の代打満塁弾。2000安打まで残り9本に迫った。

■データBOX
 日本ハム・田中幸がプロ野球史上35人目の通算2000安打を達成(日米通算の選手を含めると日本選手37人目)。
 〔1〕日本ハム(前身時代を含む)だけで2000安打以上は張本勲(2435安打、通算では3085安打)に次いで2人目だ。
 〔2〕39歳5カ月での到達は6番目の高齢到達(最高齢到達は41歳4カ月の落合博満=達成時巨人)。通算2205試合目での到達も大島康徳日本ハム、2290試合)に次いで遅かった。
 〔3〕入団22年目での到達は大島と並ぶ最長年数だが、到達時の実働年数(一軍出場年数)では大島20年、田中幸22年で田中幸がもっともかかったことになる。
 〔4〕田中幸のプロ初安打はデビュー戦の86年6月10日(南海戦)。1安打目を打ってから500安打到達までが579試合、以降500〜1000安打が488試合、1000〜1500安打が472試合、1500〜2000安打が665試合と、“区切りから区切り”までの試合数では今回が最もかかった。

北海道の方には大変申し訳ないけど日本ハム田中幸雄がこの記録を達成するというのは東京ドームでやってこそと思っていたので個人的には非常に嬉しい、ただ残念なのはテレビ東京伊集院光がスポ魂をやっていないことくらいかな・・・。